科学と社会

4歳頃からの記憶は断片的にある。

田んぼと畑に囲まれた田舎育ちの私は、

あぜ道や水路でザリガニやおたまじゃくしを捕まえ、

大好きなカエルはポケットに詰めて家に持ち帰る子供だった。

とにかく生き物が大好きで、小さな命が失われることに対して異常に反応する子供だった。浴室に落ちて溺れるコバエを助けたり、血を吸う蚊は殺すことなくそのままに。

大好きな生き物のことを調べたり助けたりするために科学を勉強するんだ。

いつしかその思いは強くなった。

当時、大学進学を考えるにあたり、私の頭の中には「理系」「文系」二つの概念しかありませんでした。生き物が好きだし、科学を解明するのは面白そうだし、数式で答えが出た方が白黒はっきりして気持ち良いし。迷うことなく理系に進んだ私。

社会に出て気候変動について興味を持つようになり、理系文系では分けられない「科学」と「社会」の交わる学問があることを知りました。まさに今大学院でも学び始めた「科学技術社会論」。科学や技術の知識だけでは解決できない社会の諸側面の課題について、社会学、文化人類学、歴史学、哲学、政治学、経済学など様々なアプローチを用いて探求する分野です。多岐にわたりすぎて複雑ですが、必ずしも正解がなかったり、科学的知見を得るのに時間がかかったり、答えを出すためのデータの取得が難しかったり、相反する科学的知見が存在したりすぐ場合にも、答えや対処法、妥協点を見つけ出さなければなりません。

気候変動問題を考えるにあたって、着地点を見いだせず何かモヤモヤした思いがあったのですが、その答えの一つには科学と社会を跨ぐ問題であるからなのだと、この学問を見つけたとき、少しだけ晴れた気分になりました。

科学技術社会論=Science and Technology Studies(STS)は、比較的新しい学問分野で、ルーツは戦間期から冷戦開始までの間です。当時、科学者や歴史学者、社会学者たちが、科学的知識や技術システムと社会との関係に興味を抱き始めました。20世紀前半の2つの世界大戦では、科学による物質の供給だけでなく、科学者が新兵器の開発に従事するなど、軍事分野における技術的かつ社会的有効性を発揮した歴史的背景¹⁾も、気候変動問題を考えるに当たって把握しておく必要がある大事な事柄です。

科学技術社会論の考え方から、新しい解決の糸口が見えてきそうな一方、知れば知るほど泥沼にハマっていく気分にもなってきました。授業内に出てきた言葉が印象的でした。

「…科学や技術においては、離れたところから見た方がはるかに割り切れた直裁な形になる。単純化されがちな見解を通じて伝聞的に理解される場合には、如何にも純粋なものに見えてしまう。激しい論争の中心に近づけば近づくほどそう簡単にこういうものだとは言えなくなり、複雑に思われてくるものである。皮肉なのは、通常の常識から期待されることとは正反対に、ある出来事について直接的経験が深まれば深まるほど、何が正しいか、という判断が怪しくなってくる²⁾。」とのこと。・・わかる気がします。

私は沼に足を入れてしまったのかもしれない。しかし、何かしらの答えに辿り着いたときの達成感はフルマラソンを走り切ったときの何十倍も爽快であることを信じて。

積もりに積もる科学と社会の話はまた・・。

参考

  • 古川安(2018[1989])「第12章 科学と戦争」『科学の社会史』ちくま学芸文庫
  • H.コリンズ&T.ピンチ『解放されたゴーレム:科学技術の不確実性について』p.16