季節の変わり目は自然の変化が目まぐるしい。
数日の間にてんとう虫が何百匹と羽化し、
大量のアブラムシを食べつくした後の緑の草地は
あっという間に枯れ、てんとう虫の姿は見られなくなった。
変わって田植えの季節と共におたまじゃくしには手足が生え、
夕方にはアマガエルもゲコゲコ鳴き始めた。
自然の循環。
季節が来れば当たり前にやってくると思っているこの循環が
滞ってしまう日のことは考えたくない。
「サステナブル」とは。「持続可能な」という意味です。限られた資源、食料、住居。世界の人口が増加する一方、このままの状態ではいつかは尽きてしまうかもしれません。
そこで、見直されているのが「持続可能な社会」。
昔当たり前だった、人と自然が共生する里山は、今こそ求められる持続可能な社会の小さなモデルだと言われます。自然の恵みをいただきながらも資源を枯渇させることなく次世代に繋いでいく、持続可能なしくみ。
近年の言葉のようですが、専門家の間では1987年国連に設置された「環境と開発に関する世界委員会」において「持続可能な開発(sustainable development)」という言葉が使われてきました。
心地よい今の生活を手放してまで、持続可能な社会を築くために行動しようなんて思わない、何十年も先のことを考えて我慢するくらいなら、このままでいい、と思う人が多数ではないかと思います。持続可能な社会を実現するためには、それぞれが自らの意志を持って選択することが必要です。
どうしたら選択しようと思えるのか、その生活が心地よいと思えるのか。
持続可能な里山の姿をよみがえらせた場所は国内各所にもあります。
先日訪れた「三富今昔村¹⁾」は、荒れ果てた雑木林を長年かけて保全し、多くの生き物が生息する里山へと復元させた場所。一時は不法投棄が繰り返され、ゴミであふれてしまったそうです。
木々の高さや密度が異なる自然の森の中は、光の量が変わることで、生息する植物が変わり、その植物をすみかにする昆虫が変わり、その昆虫を食べる鳥が変わるというように自然の循環が生まれていきます。敷地内に入るやいなや、トカゲやメダカ、アメンボにおたまじゃくしに出迎えられ、子供たちは大はしゃぎでした。
こうした復元した里山にいると、気持ちが安らぐものです。現実の生活を考えるとそう簡単なものではありませんが、心地よさを感じることには間違いありません。
子供たちが自然と生き生きする場所。そこに持続可能な社会があるのだろうと、一つの答えとして実感しています。
無神論者(神は存在しないと考える人)の代表者でもあるコメディアンStephen Fryの言葉を思い出しました。なぜ神はいないのかを問うと、「子供の骨にガンを作るような世の中なんて在り得ない。なぜそんなにきまぐれで心の狭いおろかな神がこの世界を作ったなんて信じなけらばならないのか²⁾」と答えました。
子供が不幸である世の中は、やはり不幸である、と私も思います。子供が生き生きと生きる社会は私たちにとっても安らぐ心地良い社会なのではないかと。
持続可能な社会。具体的に「だれ」が「なに」を「いつ」までに「どのように」持続していくのか?勝負と言われるこの10年、真剣に考えなければならないときに来ています。
子供の日に。