「こんなのあるよ。」
口数の少ない父が、小学生の私に手渡した新聞の切り抜き。
1級建築士として活躍する女性の記事だった。
当時女性が理系分野で活躍したり資格を取ったりすることは多くなかったけれど
建築士の父はこんな道もあるよと父なりの思いを私に捧げたのかもしれない。
何でもないワンシーンは、事あるごとに浮かび上がる。
大学院で受講した社会技術論STS(Science and Technology Studies/Science)の授業、先日で最終回となった。恥ずかしながら大学生の頃はこうした分野があることも知らず。授業があるのかどうかも知らず。日本に入ってきたのは比較的新しいようだが、昨年秋から入学した大学院で初めてこの分野と向き合うことになった。
STSの課題は、分野と分野の間の隙間、各組織の所掌範囲の隙間等をつなぐことである。例えば気候変動については科学者と一般市民、科学者と政治家、政治家と一般市民など、つなぐ作業が複数に生じる。
物事には必ず境界はあるもので、どこで線を引くのか、どのように線を引くのか、これは非常に難しい。常に揺らいでいるものである。私はどちらかというと、これまで科学的に物事を見ることが好きで、社会的な側面には興味が湧かなかった。私の中での科学的というのは、数式で答えを出したり、生態系の仕組みを調べたり、気象のメカニズムを考えるという切り口なのだけれど、「科学的」とは何か?という論点からも授業は展開される。
「科学的とは何か」の答えは「・・がなければ科学ではない」という形で、科学的であるものと科学的でないもの(非科学)とを区別することにあり、そこに境界画定作業(BoudaryWork)と呼ばれる作業が行われる(Gieryn 1995)。この作業がまた1+1=2のように機械的にできるものではなく、習得するのがとても難しい。
さらに、科学を理解するに当たって、科学が常に正しく100%確実なものではなく、不確実性を含むものであるという認識も忘れてはならない。
科学も医療も技術も、人がその分野の学問を生み出し築き上げてきたのだから、よく考えてみたら100%確実なんてことはあり得ないのだけれど、物事を進めるのにあたって、軸となる指標が必要となる。そこに科学が存在する。その時において最新の知見を基に進めていくことになる。新たな科学の進歩や技術開発によってのちにその事実が覆されたり修正されることがある。ここに、科学の不確実性がある。
自身の考えでは教育において科学が不確実性を持つことを学ぶべきではあるけれど、常に表立って伝えるべきかというとそうではないこともあると思う。気候変動問題のような長期にわたる科学的な予測には不確実性を伴うわけだが、焦点をそこに集中されては政策も進まない。
またまだ、STSでいわれる
「日頃当たり前と思っている事柄の見え方を変えてしまう力を持つ」
「目から鱗が落ちる経験をさせてくれる概念がある」¹⁾
といった領域には達しないが、
この1年で科学でない側面からも物事を見ようとする姿勢はできた。
1年後の自分にわずかながらもさらなる学びの成果が表れているよう、努力あるのみ。
今の感性も大事にしながら。
参考
1.科学技術社会論の挑戦1 科学技術社会論とは何か (東京大学出版会 藤垣 裕子ほか)